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田中 守平


生い立ち[編集]
明治17年(1884年)岐阜県恵那郡武並村(現・恵那市)に生まれる。田中家は庄屋の出ではあったが、守平が生まれたころは没落していた。8歳のときに鬱状態になり、家に引きこもる生活だった[1]。高等小学校を卒業後、小学校の助教員になったが、明治33年に上京し、働きながら国民英学会に通う。大蔵省印刷局(内閣統計局の下級職員)に勤務しながら、東京外国語学校の別科に通学[1]。
19歳の明治36年(1903年)11月に桜田門前にて天皇一行に対し上奏事件を起こす。ロシアへの強硬策を進言した書を天皇に渡そうとしたものだが、すぐ警察に逮捕される。その内容が当時の国民感情に近かったため、新聞は憂国の士と田中を擁護する記事を書き、警視庁は誇大妄想狂として不敬罪を適用せず、病気として家族に引き渡す[1]。
兄に引き取られて故郷に帰り、当局の監視下に置かれながら、自宅裏の山の庵に蟄居し、雑誌『日本人』に「東亜聯邦論」を連載[1]。明治38年(1905年)に恵那山に入り、90日にも及ぶ断食をする。太霊道の中核をなす霊的能力を、この断食中に体得したという。その後守平は山を下りて里に帰る。守平は日本海海戦の勝利、日露講和条約締結などを予言して的中させた。
霊子療法[編集]
明治39年、名古屋で大日本帝国青年会を結成し雑誌を創刊。蒙古探検隊に誘われたが、計画が頓挫したため、再び庵に戻り修行を続ける。明治41年、再度上京し、青年会を再興しようと活動を始めたところ逮捕され、再び故郷に戻り、明治43年に「太霊道真典」を著す[1]。翌年上京し、東京霊理学会を設立して、呼吸法、座法、お手当て、自動運動を組み合わせた霊子療法で治療活動を始める[2]。法服と長髪という独特の姿で、中国、朝鮮、満州、蒙古などを巡業し、霊子治療を行ない、大正2年に帰国したときは新聞で報じられた[3]。
帰国後、催眠術、心理学、信仰などを使った精神療法を行なう者たちで組織した「東洋心理協会」に参加。大正4年(1915年)3月に岐阜県有志のすすめにより衆議院議員に立候補したが、落選した。太霊道によって人々を救おうとした守平は、大正5年(1916年)東京に「太霊道本院」を開設し、大正9年(1920年)には、故郷に「恵那山大本院」が落成した。誰でも修行で霊力を持てるとし、会員制で治療の施術や伝授を行なった。会員には、中村春二(成蹊学園創設者)、郡司成忠(軍人)、友清歓真(神道天行居)などがいた[4]。守平は太霊道による霊的文明の建設を目指していたが、数年後大本院全焼の事件が起こり、昭和4年(1929年)12月14日、循環器障害の発作で倒れ、3日後、46歳で亡くなった。


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